ANMELDEN
『お願い、早く、来て』
ーーきみは、誰だ。 夢の中で、誰かが俺を呼んでいる。眩い光に包まれ、顔はよく見えない。だが、その涙に歪んだ声で、本当に俺を必要としているのはわかった。 「待て!せめて名前を! 」 叫んだ瞬間、アラームの乾いた音が部屋中に鳴り響き、現実に戻される。 「また、あの夢か……」 俺は身体を起こし、乱れた髪を適当に直してから、居間に降りた。 「兄ちゃん、遅ーい!」 「龍!あんたまた昨夜遅くまでゲームしてたでしょ!」 妹と姉さんの声から逃げるように俺は鞄を手に学校へ向かった。学校と言っても、俺がやることは、教科書に隠れて話題のスマホの異世界漫画に逃げ込み、先生に叱られるだけだ。これからもこんなどうしようもなくてくだらない日常が続いていく。そう思っていたのに。 漫画の中では、勇者が叫びながら魔王に突っ込んで行く。思わず立ち上がった瞬間 教室の床が光った瞬間、俺の指先からスマホが滑り落ちた。 画面の中では勇者が剣を振り上げたまま止まり、机の脚も、上履きの先も、椅子の影も白く焼けていく。誰かのシャーペンが床に転がる音だけが、耳の奥でやけに大きく響いた。 次に膝へ触れたのは、教室の床ではなかった。 手のひらに食い込む、ざらついた石の冷たさ。肺に入った空気は、チョークではなく、古い香炉と雨上がりの石畳みたいな匂いがした。 俺は瀬野龍夜。漫画やゲームの世界に逃げ込み、異世界で無双する妄想ばかりしている、ごく普通の高校生だ。 ……なのに。 足元には白い線で描かれた巨大な円があった。文字、羽のような模様、薄く脈を打つ光。その中心で、俺の影だけが小刻みに震えている。 「……なんだ、これ」 見上げると、天井は体育館よりも高かった。細い柱が何本も伸び、壁の上では色ガラスが赤、青、金の光を石床に落としている。 その外側に、人がいた。 白や灰色のローブを着た大人たちが、魔法陣を囲んでいる。誰も近づいてこない。ただ俺を見ていた。割れ物がまだ砕けていないか確かめるような目で。 「……学校は」 自分の声が、神殿の中へ転がった。 返事の代わりに、人垣が割れた。 白いローブの男が一歩前へ出る。胸元には金の刺繍、肩から下がる布には翼を広げた鳥の紋章。男は俺の前で膝をつき、額が床につきそうなほど頭を下げた。 「ようこそお越しくださいました、救世主様。我ら天界アストリアの民は、この時を待ち続けておりました」 救世主。 耳に入った言葉が、頭の中でうまく形にならなかった。 俺の袖口には、昼休みにこぼしたパンの粉がついている。ポケットには充電が半分もないスマホ。足元には上履き。剣も杖もない。昨日の英単語テストだって、最後の一問は勘で埋めた。 「ちょっと待て! 救世主ってなんだよ! 漫画の中の話だろ。それに名前で呼べよ!」 「あなた様は神がお選びになった救世主様でございます。名前で呼ぶなどおがましいばかりです」 男は申し訳なさそうに頭を下げる。 何だよ、それ。意味分かんねえよ。 「下界での記憶を保ったまま顕現された。やはり、神託の通りです」 周囲のローブたちが一斉に息を呑んだ。 「神託の……」 「測定前から、この光量……」 「間違いない」 囁きが石壁に跳ね返る。知らない単語ばかりなのに、その一つ一つが重かった。 「俺は、そんな大層なものじゃないです」 どうにか押し出した声は、自分でも驚くほど頼りなかった。 「ご混乱は当然です。ですが、貴方様はこのアストリアに招かれた唯一の方。やがて剣を取り、空を裂く災厄を退けるお方です」 「剣って……俺、剣道部でもないんですけど」 誰も笑わなかった。 そのせいで、余計に膝の裏が冷えた。 その時、石畳の向こうで小さな鈴のような音がした。 人垣の隙間から白が飛び込んでくる。ローブではない。光を受けた髪だ。銀に近い髪がふわりと揺れ、背中から伸びた白い羽が空気を払った。 「龍夜くん!」 名前を呼ばれた。 この世界で、まだ誰にも名乗っていない名前を。 少女は勢いのまま俺の腕に両手を絡めた。細い指が制服の袖を掴み、羽先が俺の肘をくすぐる。息に、花の蜜みたいな甘い匂いが混じっていた。 白を基調にした服は神殿の光を拾い、胸元の金細工がきらりと揺れている。瞳は青い。けれど、その奥には白い光が淡く揺れていた。 「やっと来てくれた」 少女は笑った。初対面の距離じゃなかった。長い雨が上がったあと、扉の前に待ち人が立っていたような顔だった。 「……なんで、俺の名前を」 「ミユウ」 「え?」 「ミユウ・ネフェルト。まずはそれ、覚えて」 俺の質問は、そっと横へ押し流された。 振りほどこうと思えば、できたはずだ。けれど、その指先に入った力が妙に必死で、俺は腕を動かせなかった。 「ミユウ様。まだ儀式の余光が残っております。救世主様には、まず測定を——」 「あとで」 やわらかい声だった。なのに、神官たちの足音がぴたりと止まった。 「龍夜くん、立てる?」 差し出されたミユウの手は、見た目より温かかった。 俺はその手を掴み、立ち上がる。魔法陣の外に並ぶ人々の顔が見えた。祈る者、涙を拭う者、まだ信じきれないように唇を噛む者。 全部、俺に向けられていた。 「俺は、まだ何もしてない」 小さく呟いたつもりだった。 ミユウが俺を見上げる。 「これからするんだよ」 軽い言い方じゃなかった。 白いローブの男が、祭壇の奥へ手を向けた。そこには人の背丈より高い水晶の柱が立っている。内部には白い霧がゆっくり流れ、根元には剣をかたどった金具が並んでいた。 「救世主様。適性の測定をお受けください。貴方様の力を、我らにお示し願います」 力。 その言葉に、胸の奥で漫画のページがめくれた。 何も持たない主人公が、異世界で眠っていた力を見つける。剣を握った瞬間、光が走る。周りがどよめき、誰かが言う。やはり伝説の——と。 読み慣れた展開だった。 その中心に、今、俺が立っている。 けれど、スマホの画面はもう手元にない。読み飛ばせるページも、閉じられるアプリもない。 「大丈夫。龍夜くんなら」 ミユウが俺の袖を軽く引いた。 何を根拠に。 そう聞こうとして、やめた。 彼女の目は、神託でも魔法陣でも周りの期待でもなく、俺だけを見ていた。 「……何をすればいいですか」 「水晶へ手を。内に眠る力があれば、光が応えます」 あれば。 その二文字が耳に残った。 俺は水晶の前に立つ。表面には、制服姿の情けない顔が歪んで映っていた。少し乱れた髪、開ききった目。どこにでもいる高校一年の顔。 この手を置いたら、何かが決まる気がした。 帰れるかどうか。ここで何者として扱われるのか。目の前の少女の笑みを、俺が壊すのかどうか。 「龍夜くん」 ミユウが名前だけを呼んだ。 俺は水晶に手を置いた。 冷たさが掌から骨へ走る。中の霧がぴたりと止まった。神官たちの衣擦れも、誰かの息も、遠ざかっていく。 一秒。 二秒。 水晶の芯に、細い光が灯る。 誰かが息を呑んだ。 けれど、光は強くならなかった。剣を呼ぶ轟きも、天井を裂く柱もない。漫画みたいな派手な演出は、何ひとつ起きなかった。 霧はほんの少し揺れ、すぐ薄い白へ戻った。 沈黙が落ちた。 「……反応値、微弱」 若い神官が震える声で言った。 「属性適性は」 「剣、魔術、防御、治癒……いずれも規定値未満」 神殿の空気が変わった。 祈りの目が揺れる。涙を浮かべていた人が瞬きを忘れる。さっきまで俺に向けられていた熱が、引き潮みたいに遠ざかっていく。 「そんなはずは……もう一度」 白いローブの男がかすれた声で言う。 けれど俺には分かっていた。もう一度やっても、変わらない。 神官が金属板を見つめ、さらに声を震わせた。 「総合値……測定不能」 その言葉で、ざわめきが爆ぜた。 期待外れなのか、異常なのか、それすら分からない響きだった。けれど、俺を見る目はもうさっきと同じじゃない。救世主を見る目でも、伝説を見る目でもなかった。 答えの出ないものを見る目だ。 「……だから言ったじゃないですか」 俺は水晶から手を離した。 「俺は、普通の高校生です」 誰も返せなかった。 ただ、袖を掴む指だけがあった。 ミユウが俺の前へ半歩出る。 「龍夜くんは、龍夜くんだよ」 大きな声じゃない。神殿中に響かせるためのものでもない。俺にだけ届く距離で落とされた声だった。 彼女の白い羽は、ほんの少し震えていた。唇の端は持ち上がっているのに、指先には力が入りすぎて、俺の袖に皺が寄っている。 この子も、平気なわけじゃない。 俺はようやく、それに気づいた。 「状況を教えてください」 俺は白いローブの男へ向き直った。 足はまだ震えている。けれど、膝は折れなかった。 「俺に力がないなら、ないなりに。ここがどこで、何が起きてて、俺がどうして呼ばれたのか。最初から、全部」 男は俺を見た。 今度は救世主を見る目ではなかった。水晶に映らなかった何かを、裸眼で探そうとする目だった。 何も持っていない。 それは今、ここで証明された。 それでも、目の前で笑おうとしている白い羽の少女だけは、俺の失敗ごと抱えて立っている。 なら、せめて。 俺は冷えた掌を握りしめた。 この手がまだ空っぽなら、何かを掴むところから始めればいい。ヴィネラの口元から笑みが消えた。踏み荒らされた落ち葉を靴底が噛み、二本の短剣が薄暗い森の光を拾う。片方は姉ちゃんの喉元へ、もう片方はその脇を抜けて俺たちへ届く角度だった。 俺はミユウの背を引き寄せた。腕の中の身体は力なく重く、四枚の白い翼が遅れて揺れる。地面に触れそうな羽根の下へ手を差し入れ、根を踏んで立とうとした瞬間、肩の傷が引きつった。「ぶぅー!ぷぷぅー!!」 甲高い声が張り詰めた空気を裂いた。葵の腕の中で、白い生き物が泣いている。葵は落とさないよう抱き締め直し、その様子と姉ちゃんを見比べた。「この子が、『魔法を使っておばさんをやっつけて!』って言ってるみたい」 ヴィネラの眉が跳ね上がる。言い返す代わりに、その身体が前へ沈んだ。「姉ちゃん、左の刃も来る!」 俺が叫ぶのと、美咲の手元に光が集まるのは同時だった。指の間から伸びた輝きが一本の杖を形作る。姉ちゃんは目を見開いたが、迫る短剣から顔を背けなかった。滑りかけた柄を両手で握り直し、斜めに構える。 守護の杖を包んだ光へ、最初の刃が叩きつけられた。 耳の奥まで響く衝突音。足元の落ち葉が円を描いて吹き飛び、姉ちゃんの髪が大きく翻る。けれど、その靴は土の上に踏みとどまっていた。逆にヴィネラの右腕が弾かれ、肩が後ろへ開く。 続いて脇腹を狙った左の短剣も、杖に沿って張り出した光に止められた。衝撃が柄を伝ったのか、姉ちゃんの肘がわずかに曲がる。それでも両手を離さず押し返すと、ヴィネラの踵が地面を削った。「本当に……使えるの?」 姉ちゃんの声には驚きが残っていた。その間にも杖の先は敵を追い、俺たちの前から外れない。「この子娘が!」 ヴィネラは短剣を低く引き、左右から続けざまに打ち込んだ。甲高い音が重なり、刃が跳ねるたびに光の欠片が散る。姉ちゃんは杖を胸の近くに保ち、斬り込まれる側へ身体ごと向き直った。 俺はその足元と敵の刃を見ながら、ミユウを抱えて幹の陰へずれた。葵にも顎で合図する。「俺の横へ。根をまたげ」 葵が移った直後、弾かれた短剣がさっきまでいた場所をかすめた。俺はミユウの頭を胸に庇い、ヴィネラの肩の動きを追った。 次の打ち込みは、二本同時だった。姉ちゃんの杖を押さえ込むように刃が交差する。だが、ヴィネラが体重を乗せるほど光が強まり、押し込んだ両腕が震え始めた。「この子たちから、離
青い炎が裂け、その奥から二本の刃が迫った。 ヴィネラの髪も肩も炎の向こうで揺れている。それなのに、俺を捉えた目だけはぶれなかった。頬を打つ熱風に目を細めた、そのわずかな間にも距離が縮まる。落ち葉を蹴り散らす足が見えたときには、右の短剣が首筋へ届くところまで来ていた。 俺は左足を引き、肩ごと身体をひねった。切っ先が顎の下を抜ける。冷たい刃の近さに喉が縮んだが、後ろへは退けない。背後にはミユウたちがいる。「木の陰へ! 俺から離れろ!」 声を投げると同時に、左へ走った。木々の間を斜めに横切れば、あいつの背を三人へ向けさせられる。土から浮いた根をまたぎ、追ってくる足音を聞きながら振り返った。 ヴィネラはすでに腕を引いていた。 今度は左。腹へ向かう刃を腰をひねってかわすと、右の短剣が逃げた先へ振り下ろされる。俺は膝を折り、頭を下げた。金髪の先をかすめた刃が、背後の細い枝を断つ。落ちてきた葉が肩に当たるより早く、俺は掌を突き出した。 なお渦巻く青い炎が二人の間で膨れ上がり、ヴィネラの輪郭を覆う。 これで離せるか。 低く踏み込んだ靴先が炎の下から現れた。短剣の切っ先も続く。俺は突き出した腕を引き、肘のすぐ下を走る刃から逃れた。炎の向こうに消えた相手を見失えば、その一瞬で懐へ入られる。「どこを見ているの?」 耳に近い声とともに、もう一本が脇腹を狙った。 身体を反らす。衣装が引き裂かれ、皮膚を熱いものが走った。浅い、と確かめる暇さえなく、次の刃が胸へ戻ってくる。右、左と避けるうちに足幅が狭まり、踵が太い根に触れた。 このまま下がれば転ぶ。 俺は逆に踏み込んだ。左の短剣を持つ手首を外側から押さえ、肩をぶつける。掌に骨の硬さが食い込んだ。息が触れるほど近くなったヴィネラの顔から、笑みが消える。 今なら押し返せる。あいつの右腕が戻る前に、もう一歩。 踏ん張った足の下で落ち葉が滑った。 押す力がわずかに抜け、その隙に手首を振りほどかれる。右の刃が斜めに走った。顔を引いた俺の左腕をかすめ、鋭い痛みが肘まで広がる。腕が下がったところへ、ヴィネラの膝が入り込んだ。 蹴り抜かれた瞬間、腹の奥から息を奪われた。 足が土を離れる。青く照らされた幹が視界を流れ、背中に硬いものがぶつかった。衝撃が胸まで突き抜け、開いた口からは声も出ない。身体が幹を滑り落ち、肩から地面
「おーっほほほ! やっと見つけたわ! 勇者!」 女の笑い声が、湿った木々の間に響き渡った。枝の揺れる音を聞きながら、俺は足裏で根の位置を確かめる。右へ半歩ずれれば、後ろの三人を体で隠せる。腰を落とすと、覚醒した体を包む戦闘衣の裾が草を撫でた。 六歩ほど先で、女が顎を反らしている。笑っているのに、その視線は俺の胸から離れない。木陰の冷気が襟元へ入り、肌に薄く汗が浮いた。「こんにちは。アストリアに住んでる人ですか?」 葵の声に、俺は右腕を広げた。脇から顔を出しかけた妹が、足を止める。腕の中では白い生き物が耳を立てていた。「そこにいろ。俺より前へ出るな」「お話するだけだよ。こっちで初めてのお友達になれるかもしれないし」 葵は俺の腕越しに笑いかけた。女が返事をしないと、聞こえなかったと思ったのか首を傾ける。その無防備な仕草を、今は背中の陰へしまっておきたかった。「おばさん、なかなか迫力あるじゃない。魔法少女の映画なら、私にも出番をちょうだいよ」 左後ろから美咲姉ちゃんが覗いた。笑みを浮かべ、相手の出方を待っている。いつもなら俺も呆れて返せただろう。けれど女の指がゆっくり開くのを見て、視線を外せなかった。「あたしはヴィネラ。魔王様に最も近しい者」 名乗る声には、褒め言葉を待つような間があった。姉ちゃんの笑みが止まる。俺の袖に触れた指が、そのまま布をつまんだ。「魔王様って本当にいるの?」「いる。だから、少し下がってくれ」 姉ちゃんは俺を見た。冗談を返さない顔を確かめるように見つめ、それから袖を放した。それでも足はすぐには動かず、ヴィネラとの間を測るように、その横顔が向き直る。「葵ちゃん、私のそばにいて」 ミユウの声がした。振り向くと、銀白色の髪の向こうで白い翼が狭く畳まれている。葵へ寄ろうとした一歩が小さい。傷をかばって止まった体を支えるように、そばの幹へ手を添えていた。 俺は葵に後ろを示した。妹がようやく一歩引くのを見届けたところで、ヴィネラの声が低くなる。「勇者、あんたの体になぜアストラル・オースが宿ったか知ってるの?」 呼吸に混じっていた森の匂いが、急に遠くなった。 体の内にある力へ意識が向く。エクシードへ覚醒した今も、手足を動かす意思に応えてくれる、確かなもの。だが、なぜ俺に宿ったのかと問われれば、答えは出てこなかった。「どうい
梢の高いところで、笛の音に似た鳥の声がした。 先を歩く葵が、ぴたりと足を止める。葉の重なりを仰いだ拍子に肩の荷物が傾いたが、直す気配はない。木漏れ日の斑が頬を滑り、その目が枝から枝へ忙しく動いた。「今の、どんな鳥だろう。もう一回鳴かないかな」 湿った土の匂いがする道には、太い根が幾筋も横たわっていた。葵の靴先は、その一本に触れそうになっている。俺には声の主より、次の一歩のほうが気がかりだった。「あまり一人で遠くに行くんじゃない!」 葵が振り向いた。返事の代わりに持ち上げかけた足を見て、俺は根を指さす。そこでようやく足元へ目を落とし、彼女は大きくまたぎ越した。「分かってるって。ちゃんと見えるところにいるでしょ」 そう言って荷物を背負い直す姿に、ため息が出る。見える距離と、何かあったときに手が届く距離は違う。それをどう伝えれば、せっかくの機嫌を損ねずに済むのだろう。「にいちゃんから離れるんじゃないわよ」 後ろから美咲姉ちゃんの声がして、俺は少しほっとした。姉が同じことを言ってくれるなら、葵も聞くだろう。ところが、追いついてきた姉の口元は楽しげに緩んでいた。「こんな森で別行動なんて、事件が起きる場面そのものじゃない。私たちも、そろそろ魔法少女になる見せ場がありそうね」「……映画じゃないんだから」「分かってるわよ。でも、この木漏れ日、すごくきれい。歩いてるだけで絵になるわね」 俺は額に手を当てた。曲がり角の向こうへ葵が消えないように見ながら、姉まで呼び戻すことになるのか。道はこれからも続く。その先の一本一本の木が、二人を隠してしまう場所に思えて、早くも頭が痛くなった。 隣で、ミユウが小さく笑った。銀白色の髪に落ちた葉の影が、歩くたびに揺れる。「お兄さん、姉妹がいるの、いいなあ」「そんなにいいものじゃないぞ。今の見てただろ」「うん。でも、みんなで話しながら歩くの、楽しそう」 白い小さな翼がふわりと浮いた。その顔を見ていると、続けるつもりだった愚痴が引っ込んだ。姉や妹の声が聞こえることを、俺は当たり前に受け止めすぎているのかもしれない。 ミユウが根を越える際、歩幅を狭めた。俺も足を緩める。胸の奥に残る痛みを刺激しないよう息を整え、低い枝を持ち上げて彼女を通した。「歩きにくかったら言えよ。葵も、俺たちに合わせてくれ」「はーい。魔王を倒し
タキシードの袖から腕を抜くと、肌にまとわりついていた熱がほどけた。椅子の背へ上着をかけ、胸元の釦を一つずつ外す。窓際の花はまだ瑞々しく、午後の光を透かした花びらが、寝台の白い掛布に淡い影を落としていた。 俺とミユウのために整えられた部屋。その響きに照れる間もなく、別の役目まで両肩に積まれてしまった。 手に取ったアストリアの白い服は、礼装よりずっと柔らかい。けれど、襟を広げたところで指が止まった。胸の奥にはいつもの鈍い痛みが残り、深く吸おうとした息を途中で緩める。「なんで俺が、勇者やら王やらに」 誰に聞かせるつもりもなかった声が、静かな部屋では思いのほか大きく響いた。 放り出したいわけじゃない。家族を帰したいし、ミユウが安心して眠れる場所も守りたい。ただ、そのために差し出す返事一つで、美咲や葵の行く先まで決まってしまう。白い布を握る手に、知らず力がこもった。 控えめなノックの後、戸口で母さんが俺を呼んだ。「今、着替えてるから!」「ここで待ってるわよ。慌てなくていいから」 扉越しの声に、家の洗面所で鉢合わせしかけたときのことがふと重なった。こんな場所でも、母さんは母さんだ。服に頭を通し、袖口から手を出す。裾を下ろしてから迎えると、母さんの目が俺の顔から襟元へ動いた。「そこ、折れてる」 伸びてきた指に襟を直される。自分でできる、と口にしかけて、やめた。首筋に触れる指先が少し冷たく、その奥の手のひらは温かかった。「勇者に、今度は王様まで。……重荷になってない?」 母さんの手が、襟からゆっくり離れた。 平気だと答えれば、いつもみたいに話を終わらせられる。けれど、俺の目の高さに向けられた視線は、そんな返事を急いで探す必要などないように、静かに待っていた。「重いよ。どうすればいいか、全部分かってるわけじゃない。なのに、俺が決めないといけないんだろ」 声が頼りなく聞こえて、唇を結んだ。母さんは隣の椅子へ腰を下ろすと、床に触れかけていたタキシードの裾を持ち上げた。指で皺を伸ばし、背もたれへ掛け直す。その小さな手間さえ、さっきの俺には惜しかった。 母さんたちを帰すことも、旅のことも、自分が片づけなければと思っていた。頼られるのが嫌なのではなく、頼られた途端、分からないと言えなくなる。それが苦しかったのかもしれない。「俺が王になったら、叶えたい夢があ
「ちょっと!帰れないってどういうことよ!」 美咲の声が石の壁に跳ね返り、俺たちの間へ戻ってきた。美咲はその響きにも驚いたように唇を閉じ、青白い光の消えた場所を見返した。踏み出しかけた足が止まる。そこにはもう何もなく、窓から差す明かりが床の石目を照らしていた。ついさっきまで帰り道の開くはずだった空間を、俺も目で探してしまう。 母さんの手が葵の肩に置かれた。父さんは床を見つめてからルゥへ顔を上げたが、その口が開くより先に、美咲が息を吸った。「映画のクランクアップだって明日なのよ!女子高生俳優、初めてランウェイを歩くって今すっごい注目されてるのに!」 言い終えた美咲の喉が、小さく上下した。いつもなら胸を張って話すことなのに、今は誰かに引き止めてもらいたいような声に聞こえた。指先が落ち着かずに擦れ合い、やがて片方の手でもう片方を握り込む。俺へ向けられた目が、すぐにルゥへ移った。 明日には帰れる。その前提が崩れるだけで、姉の声はこんなにも変わってしまう。祝ってもらったばかりの俺には、なおさら返す言葉が見つからなかった。ここへ来てよかったと思ったまま帰ってほしかったのに、今、その帰り道さえ渡してやれない。 隣から花の匂いがした。ミユウのドレスに残る婚礼の香りが、場違いなくらい優しかった。「明日の算数の小テストで平均点取ったら、タケルくんが告白してくれるのに!」 葵は母さんの手の下から身を乗り出していた。俺と目が合っても、いつものように照れて笑ったりしない。唇の端をきゅっと引き結び、返事を待っている。その真剣さに、喉まで出かかった曖昧な慰めが引っ込んだ。 葵にとっての明日は、ただ日付が変わることじゃない。教室へ行って、小テストを受けて、好きな相手の言葉を待つ一日だ。俺が何も言えずにいるうちに、葵の視線が下がった。母さんの手を探した指が、見つけるなり強く絡みつく。「わたしも、今日中には帰れると思ってたよ」 母さんは葵の指を包んだまま、美咲を見た。何か言おうと口を開き、結局、そのまま閉じる。その頬にもさっきまでの柔らかさはなかった。「葵ちゃん……大丈夫?」 ミユウが葵へ近づこうとして、傷をかばうように一度足を止めた。白い翼が背中でこわばり、ドレスの裾だけが遅れて揺れる。葵は顔を上げたが、うなずかなかった。代わりにミユウの手元へ目を落とし、母さんのそばへ少し寄
「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!
「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で
「いやあぁっ!」 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。「龍夜くん、少しだけ休んでいって」 そう言って、俺の手を離さなかった。 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだ
白い扉の前で、俺は足を止めた。 測定の間。そこへ向かうまで、ミユウは俺の手首を掴んだまま、迷いなく歩いてきた。「龍夜くん、こっちだよ」「……これ、本当に必要なのか」 ミユウはきょとんと振り返った。白い羽が揺れ、銀色の髪が肩で跳ねる。「必要だよ。龍夜くんが、どんな力を持ってるか見るの」「持ってなかったら?」 自分でも嫌な聞き方だと思った。 けれどミユウは怒らない。俺の手首を離し、両手で俺の手を包んだ。「持ってなくても、龍夜くんは龍夜くんだよ」「それ、答えになってない」「うん。答えじゃないよ。でも、先に言いたかったの。水晶が見せるものが、ぜんぶじゃないって」 小さな掌は